昭和48年12月03日 朝の御理解



 御理解 第96節
 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」

 世の人があれこれと神の事を口端にかける。口端にかけるというならば悪口をいうと、又はいろいろな非難をする。そういう時に私共がわからなければならない事はどうしてそういう根も葉もない事を言い立てるのか、どうしてそう根も葉もない事をいうのかと、むきになったら信心じゃない。いやむしろ、神のひれいじゃと仰る。そいう時にこそ画はの御心がもう生き生きとして、神の働きが始っておる時なんです。
 だからここを分らせて貰わないと、信心のある者も無い者も同じ事になるのです。それをいうならば、赤面弁慶になって言い訳をする事もいらん。いやむしろ、それは御理解の特別の働きがはじまっているんだと言う事になったら、かえって嬉しい却って有難い。いやむしろ、御礼を申し上げたいような心が生まれてこなければ嘘。普通一般はどうですか。悪口を言うたら、わざわざそこに行ってから、どう言う事の為にそんなに私の悪口を言うかと、根も葉もない事とまぁ喧嘩腰になるところでしょうね。
 いわゆる私共は神様から顔を立ててもらう、おかげを頂く。私は今日はここのところを思うのですけれども、口の端にかけよるのも、神の非礼じゃと仰るところがね、一つ分らなけりゃいけないと思う。神様の生き生きとした働きが、もうすでにはじまっておるんだとわからせて頂いたらその事の中にそれこそ、まぁ如何にどう言う事を言われても、心の中に、にこっと笑いたいようなものが生まれてくる。
 ああ神様はどういう御都合じゃろうか、どういうおかげを下さるおつもりだろうかと言うような心すら起きて来る訳であります。それを私共これは私自身がそこんところを頂いてきたわけですけれども、いわゆる成り行きを大切にする。どう言う床が成り行きななって参りましてもです、その成り行きこそが神様の働きだと、私が確信させて頂けるようになったところから成り行きを大事にする。
 その事を御事柄として、受けて行こうという生き方は、成程おかげが受けられるはずだなあ、お徳を受けられるはずだなあと言う事が、改めて分ります。それを信心が無かったら、信心が薄い時にはです、自分の都合の良い事だけは有難いけれども、都合の悪い事はもうみんな向こうに押し返すような、いうなら喧嘩腰にすぐなるような、生き方をしておった事が、信心が無かった時、信心がまだ分っていなかった時だと私は思う。
 いうならば、本当に神様の働きをいよいよ受ける前提だと言うてもよい訳です。皆さん、私共のここ二十数年間の、椛目時代から合楽に参ります、随分色々な事がありましたよね。もう惟以上の悪口はあるまいと思われる様な悪口も随分言われてきたですね。本当に血の涙が出る思いがした事がありますけれども、さあそこは神様の働きと分っていなかったけれども、そのところをです成り行きを大切にするという生き方で、本気でそこを合掌して受けて行った。言い訳はしない。又はそれを言うて返す事もしない。
 黙って受けて行っている内に、どう言う事になるかというと、黙って受けておる内にこれはもう、期せずしてなら私自身の事を言うてもそれが全部心の根肥やしになったと言う事。心が大きくなったと言う事 心が豊かになったと言う事、心が限りなく美しくなって行っておると言う事、その都度に。じっと辛抱しとる、恥ずかしい事を言われる事もありゃ、苦い思いをする事を言われるような事もある。
 もう本当にもう本当に、もうそれこそ腹の中が煮えくり返るよな事もあるけれども、さあ、それをじっと辛抱して行く内に、それが心が大きうなり心が豊かになり、限りなく美しゅうならせてもらえれる。いうならば心の糧であった。肥料であっだと言う事になった。そしあれも成程神のひれいであったなあ、神様のおかげを下さろうとする、力を下さろうとする、大きな心にならせて下さろうとする、働き以外ではなかったという事が、確信づけられて来たのが今日の合楽の信心だと思うです。
 だからいよいよ豊かになれる、いよいよ有難いまあ普通でいうならば本当に、憎みたい、怨みたいと言う事でも、反対にその人が祈って祈って祈ってやらねばおられない心の状態が、私は限りなく美しくなっいる状態だと私は思うでんです。又どう言う事があっても自分の心の中に、それが平気でと言うより、有難く受けて行けれると言う事は、心が大きくなった証拠だと思う。だから限りなくおかげはいうならば、大きくなってくるわけであります。だからここに徹する事です、合楽の信心は。
 そこを例えば始めの間は辛いです。黙って受ける事は辛いですから、生神金光大神、天地金乃神と一生懸命にお縋りをする。御取次を頂いて行く内にです、そこに神様の御働きと感じられる様に自分の心の中に有難いものが育てて来る様になる、そして神様が最後の一節、人が顔に係る様な事を言うても腹を立てなと。もう立てんですむ。いや立てんですむどころじゃない。相手の事を祈らにゃおられない程のものが生まれてくる。昔あのう田主丸のむつ屋の石井さんが、もう信心はしておったけれども。
 信心が分っていなかった証拠に、いわゆるあそこの商店街に呉服屋さんが何軒もある。さあ大売出しともなると、沢山の人が出てくるが、もうとにかくよその呉服屋の包み紙に包んだものを持って前をうろうろされるともう、それが腹がたって腹がたってしようがなかった。もう売出しちゅうとのぼせししもうちから、口の中が口切れしたり、口の中が荒れてという程しにあった。
 それこそ同じ商売仇でそれこそ根も葉もない事はぁこう言う事を言われたと言うて、始めの間はそれこそ、女主人と思うてあなどってと言う様な、腹がたってやっぱりお届けをしておられた。段々合楽の信心を頂かれるようになったらね、もうとにかく有難うなってきた。もう他所の包紙を持って沢山行ったり、前できたりしよんなさるとを見るとね、おかげで田主丸の街の商工会の、大発展のおかげを頂いとると思うて、お礼を申し上げねばおられなかったというくらいに変わってきた。
 それがむつ屋の商売繁盛の基になった。得てしていうものです商売仇と。それこそ嘘八百並べてから、いろいろ言われる。それを聞くと、それこそそれをみな、喧嘩腰になって言いもどしに行こうごとあった。又向こうが悪口いうなら、こっちは倍でも悪口を言いたいような心の状態であったことがです、それこそもう、のぼせてしもうてから、口の中が荒れて物言われんごとなりよったという。
 所が信心が段々分らせて頂く様になって、どの様な顔に係る様な事言われても、腹を立てなというだけでなくて、腹が立たんだけでなくて相手の事を祈ってやれるような気持ちになった。沢山なお客さんが自分方で買ったとじゃない、他店で買われた言うならば、包装紙を持った人達がうろうろされるのを見るとです、田主丸の街が発展しよると思うて、お礼を申し上げる心にならせて頂いたら、もう売出しでも楽で楽で楽になってしかも売り上げはおかげ、倍増して行くおかげ頂いて有難いというておられましたね。
 心の状態が変わってくるとね、そういう事になってくるんです。いわゆる神様が顔を洗うてやるという事になってくる。いうならば神様が顔を立てて下さると言う事になってくる。神様が顔を立てて下さると言う事になると、それは大変なんです。人間の一握りはこれだけだけれと、神様の一握りというたらもう、どれだけあるやら分らん。そういう意味に於いて、限りなく神様が顔を立てて下さる。神様が顔を洗うて下さる。これは私を見て下さるが一番良いね、
 どんな場合でもなら馬鹿と阿呆になっておるという生き方。どうですか最近では、もうそういう悪口を言うておった人達が合楽、合楽と言うて通うて来る様になったじゃない。合楽の信心はと皆さんが関心も持つようになったじゃないか。神様はいうなら、信心は出来んのでけれども、そういう辛抱させて頂いく。その修行さして頂いておるから顔を立てて下さって。こういう御広前建立と言う事になったじゃないか。
 さあ御大祭ともなると、もうそれこそ合楽にはどうしてあれだけの人が集まるがどうしてあれだけのお供えが集まるかという程しに、集まってくるじゃないか。これは私の信心が出来たからじゃないけれども、神様が顔を立てて下さりよるのです。神様が顔を洗うて下さっている姿なんです。例えて私はここ二十数年間、お金を出してまで理髪、床屋さんに行った事がないし、又出ませんから誰かが頭つんで下さる。
 もうその時その時に、もうそうですね二十年の間にやっぱり十人位替わられましたでしょうか床屋さんが。それを思う事がね、それを思うただけでもね、それが度々良い床屋さんになって行く。もうますます良い床屋さんになって行く。最近はそこの合楽の理髪屋さんが出来ていた。そこの主人がおかげを頂きたいというて、田中さんがおかげを受けたいと言うてお届けがあった。ならお願いしますと言いよっだら、そうですね半年か一年位きて頂いたでしょうか、月に三回来てもらう。
 ところが店を辞めなさったとこういう。そりゃ先生の頭はこれはどうてるかと言う事であった。ところがその田中さんところのアパ-トにね、部屋を貸してくれというて来なさったのが、若い床屋さんですけども、常持で今まであったところの後を引き受けてやられる方がみえた。その田中さんところの貸家に入られる事になった。こんなわけですからと言うたら私でよかったらどうぞと言う事であった。それでお店が寸でから、昨日お店が八時に済むから今からそうして参りますと。
 昨日私は初めて初めてじゃない、本当にこんなに丁寧な床屋さんは今だかって合うた事がなかったと言う様に丁寧な床屋さん。二十何年間ですよ一つの切り間もないですよ、この床屋さんが来んと言う事になったら、その次の誰かが必ず来ているです。もう例えばこれだけでも驚きでしょうが、さあならどこやらに電話かけちから来てもらい、しかも私がお金を払うてからじゃない。誰かがおかげ頂きたい、おかげ頂かして下さいと言うてくるのばっかりなんです。
 一番はじめの床屋さんなんかは、久留米の梅林寺の前の床屋さんでしたがね。手にこんなこぶが出来とった。ある事で椛目時代にお願いに見えておかげを頂いた それで自分で器用な方でしたから今でもそれがのこっていますからね。床屋さんの道具は一切。いろんなものは全部床屋さんが出来るように、道具機械類が全部お供えされた。箱を全部作ってそれをここに備え付けてある。今はもう使っていませんけどね その人がね二回目か三回目に、あのいわゆる久留米の駅から椛目までバスに乗って来よった。
 もういっぱい満員だったから、こげんしてから吊り革にこうぶらさがる様にしてから来とる、確かに善導寺までこうやって吊り革ばこうしとるとにね、確かにここに瘤があったと、瘤がところがね、椛目で降りようと思うて、手を見た時には瘤がなかった。もうびっくりしてしもうてね、そういうおかげを頂いた。まあそういう例というなら、限りはない事ですけどね、そして見えられるようになって、次から次と何代も替えられて、しかもそこに間髪入れず神様が自由自在だと言う事が分るでしょう。
 私は昨日床屋さんに頭を摘んでもらいながら思うた。本当にこの神様の摘んで下さっておるその向こうに神様の働きが、もうそれこそ微に入り細に入りあっておるであろうがですその働きを思うたら、もう本当に有難い、勿体ないとの心でいっぱい、これはもう、頭を摘むと言う事だけではありませんよね。食べる事だって着ることだって、これこそ布一寸買いません。米一粒でも買いません。でもです、もうそこにはちゃんと、それこそ勿体ない、然も段々勿体ないものに変わってくる。
 始めの間は先生これは古手ですけれどもというて、一ぺんも手を通しとらんから着て下さいというてそんなお供えじゃった。まあそれから銘仙木綿といったものであった。だんだん、段々おかげを頂いて、もうそれが本当に一反何十万と言う様なものが集まってくるようになった。これは私と家内の上に集まってきた。あるときなんかその、それこそそれの受けものタンスのお供えがあった。次々と来る様になった。来る度にそのタンスがいっぱいになって行った。
 しかも集まってくるものは、もうこれ以上よかつはあるまいというものが集まって来る様になった。これはまあ皆さんがいうなら、皆さんが私がおかげを受けておるのを見て下さる通りなんです。それはどう言う事かとかいうとです、世の人が顔に係る様な事をいうても、腹を立てなではない、腹を立てんどころではない。かえってお礼をいう心が本当に生まれてきたということ。それが本当に神のひれいである事がわかってきたという事 困ったこと、難儀な事が起こってくる事は。
 よりおかげを下さろうとする働きであると言う事がわかってきたから、そりゃもうよろよろするような事があるよね。難儀な問題が起こってくると、けれどもそれをどったい受けとめて、こころの中ではお礼をいうとる。はあこれを受けきったら、どういうおかげを受けられるじゃろうかという楽しみが生まれくる。そういう私は生活が出来るが私は信心生活だと思うです。ですからそこんところの道理が分らせてもろうて、そこんところをきつかろうけれども辛抱していく内に道が開ける。
 いわゆる神様が顔を立てて下さるおかげになってくる。もう例えば、神様が顔を立てて下さるとか、神様が顔を洗うて下さると言う事を、お話をするなら限りないです。まあ例えば、私が今日は散髪なら、散髪と言う事だけ二十年数年間次から次と、それこそ誰かが木管を渡しよるようにです、さあならこの人が来なさらんなら困ったと言う事がないと次から次とおかげを受けておるという事実を皆さんが見て下さっただけでもです、ならこの六十九節が嘘ではない。
 教祖様は嘘はおっしゃってない、本当な事だと解らにゃいけん。口の端にかけるのも神のひれいじゃ。これは悪口は言われるだけじゃない。難儀だってそうなんだ、どうして私だけこんな貧乏くじを引かんならんだろうか。いやその貧乏くじじゃない、その貧乏くじと思うておるその貧乏くじこそが、実をいうたら宝くじゃと言う事が解らにゃいけん。だから目の前に肉眼で見た目には、貧乏くじのようだけれども、それを合掌して受けられる。いやこれで結構ですと言えれるのだ。
 それを頂いていく内に、心も豊かになり、心も大きくなって、勿論おかげを段々大きくなる。いうなら床屋さんが来る度に段々段々より丁寧な上手な人に替わって来るようなもんです。そこんところをです、神が顔う洗うてやると仰せられる所が、そのおかげの世界であります。どうぞどうぞというてお願いをして、おかげを受ける事も有難い、お願いをする事が成就する。けれども神様が顔を立てて下さる。神様がいうならば顔を洗うて下さるというおかげは、もうこれはもうそれこそ限りがないおかげ。
 それこそ勿体ない勿体ないというおかげ。私は今日は特にここんところを皆さんにわかって頂きたい。口の端にかけるのも、神のひれいじゃと。困った事が起きてくるのも神のひれいじゃと。ひれいと言う事は神様の生き生きとした働きがもう始ったんだと言う事を信じて貰いたい。それは例えば乞食だと言われても、泥棒だと言われても、乞食しとらにゃよし、泥棒しとらにゃよいのですから。
 俺が何時泥棒したか、俺がいつこじきしたかと言わんでもいいと、それを神のひれいとして受けていけれる生き方。それをいよいよ成り行きを尊ばせて頂くと言う事にもなるわけなんです。ここんところがわかってまいりますとです、段々腹が立たん、辛抱せんならんと言う事ではなくてです、もう腹が立たんどころか、御礼を申しあげたい心が生まれてくる。その御礼を申しあげれる心が、あなたは今助かっておると言う事になるでしょう。 その先に神が顔を洗うてやるという広大なおかげになってくる。
 それを例えば私はを見て下さって、私が頂いてきているおかげがです、昨年よりも今年と言う様に大きくなって行っておる、広がって行っておる。より立派なせのになって行っておる いよいよ心がいうなら豊かに大きく、美しゅうなって行く事だけに、焦点がおいてあるから、それが頂けるんです。それが実際に頂けれるのが、金光様の御信心です。合楽の信心です これは例えば。
 教祖様のもう百年も前の話ですよというのじゃない。私が日々おかげを受けておる話を聞いてもろうて、この例えば教祖様の御教えというものが如何に本当だかという事をね、私が実証して折る様なものだ。だから皆さんとても私がいうた事を、親先生があんなこと言いよったが、成程親先生が言われる通りにおかげを受けたという時に、私を実証して下さることになり合楽を実証して下さる事になるのですから、そこから又新たなおかげが展開してくるようになるのをですよね。
   どうぞ。